2005年11月06日

障害者自立支援法とその周辺
権利闘争「以後」についてのメモ(中)

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むう、カタイ話は疲れる(´・ω・`)
しかれども、そろそろ本論なので頑張って長文してみる。

前回
は権利獲得闘争を経て政治的に獲得した「権利」や「(権利によって保障された)福祉」は、本質的に政治的闘争を経て剥奪されるリスクを抱えていること、そして今度の障害者自立支援法案の成立もまた(それを、公的援助の一方的な縮小と捉えるならば)そのようなプロセスとして解釈できるのではと提起してみた。

勿論、それは現代日本の社会・経済状況が、そのようなプロセスを後押しするような傾向にあるからでもある。

だからそこからの課題として、マイノリティに限らず、権利闘争を経て何らかの「権利」や「福祉」を獲得した集団や人びとにとって、権利闘争「以後」をどうするかが相当重要である、と言えるんじゃなだろうか。

今日はその続き。
「以後」の行動や課題の捉え方みたいなものを、いくつか気になる文献なども引用しながら、考えてみる。
多分この話の応用領域は社会福祉政策うんぬんだけにはにとどまらないような気がする。まあ、ひとまずそれはいいや。

ただ、あんましこういう事がまとまった形で言われたことを灰だらけ猫は勉強不足ゆえに知らない。誰かおせーていただければ有り難しです。

■闘争「以後」。二つのプラン。

20世紀は権利闘争の時代だった。
労働者の障害者の、そして各種マイノリティの。
それは間違っちゃいなかったし、今、灰だらけ猫がこうして、のんべんだらりとblogに駄文を書き込んでいられるのも先人の努力のおかげに他ならない。

でも、それはいつまで続くものなんだろう?

政治的に実現した物事は、政治的に葬られゆくリスクを常に背負う。
だから、闘争によって何らかの「権利」なり「福祉」なりを手にしたならば、そこでハッピーエンドとはいかない。

闘争「以後」には二つの方向性がある。

ひとつは、手に入れた物事を死守し続けること。
もうひとつは、手に入れた物事を利用して、それが無くなっても大丈夫なようになんらかの準備をしてゆくこと。

本論の目的は後者を主張するところにあるので、それは次回に回して今日は前者について検討してみる。
ひとまず具体的な社会運動なんなりを俎上にのせることもできるんだろうけど、本論ではロジックの世界で、つまり「権利」・「福祉」の獲得を正当化する言説をタネにみてみたい。

■稲葉振一郎『「資本」論』ちくま新書 2005

その前者の代表、ではないんだろうけど、
最近読んで面白かった、ホットな論考を素材にしてみる。

4480062645「資本」論
稲葉 振一郎

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ちなみに先生のブログはこちら

本書は、昨今話題の「セーフティーネット」ってのは政府とか富裕層からの「恩恵」じゃねえんだ、ってことを論証しようとしている。

稲葉先生はこう述べる。
社会契約論の古典(ろっくろっく)なんかでは契約の構成員としてみなされていない無産労働者階級も、「労働力=人的資本」という財産の所有者とみなせば、その財産をホッブズ的自然状態から守るために社会契約を結ぶ一員ということができる。
それはつまり労働者階級を、難民のように権利上裸のままで国家なり共同体の外に放り出された存在とは違った、社会構成員(市民)として扱うことになり。それゆえに、その労働者階級への各種の福祉措置「セーフティーネット」の提供なんかも正当化できる。と。
(と、灰だらけ猫は読みました。誤読でしたらご指摘を・・)

そしてこのような財産所有者たちが、自らの財産権、つまり所有権とその所有する財産を取引する権利を守るために作った国家も、当然ながら人びとをそうした財産権の主体として扱います。それはどういうことかと言えば、あくまでも人を財産権の行使の主体として扱い、「むき出しの生」としては扱わない、ということです。
(p.249-250)

本書は政治思想の本であって、「セーフティーネットの存在証明」に留まらない射程を備えている。「無産労働者階級」の語に対応する現代用語は「サラリーマン」だから、多分大方の日本人にとって切実な問いだ。
先生の仰っていることは面白く、ためになりました。

■政治的要求の政治的帰結というリスク

しかし、と考える。
まず、何度も言ってきたことだけど、やっぱり「権利」や「福祉」を掲げた政治的要求、また、そのようなプロセスを経て獲得された「権利」や「福祉」とは、あくまで政治的産物以上の何ものでもないのであって、それに対抗するような「権利」や「福祉」への政治的要求が、その社会・経済情勢の追い風を受けたときには、「政治的に」消滅させられることを原理的に避けられない。

だから根本的な部分の正当化というのは必要だし、そして本書は面白い論考なんだけど、現実社会はもっと狡猾で強靱。そしてそのために、このような論考の掬い落としてしまうような方法でもって、「権利」なり「福祉」の内実を後退させてゆく。

倫理的に「消滅」させることは難しいから、「ジリ貧」、徐々に生殺しのように削られていくという状態が現実に、いま現在のこの国で行われていることだといえるんじゃないだろうか。

■「福祉」そのものが孕む課題

また、もう一点、無視できないのは、本書でも指摘されているけれど
そう考えるなら、正規従業員における雇用保障は、かえって厄介な問題を引き起こしさえします。すなわち、正規従業員、つまり長期にわたる雇用関係の継続を保障され、業務組織のメンバーとして扱われる雇用労働者は、自らの労働力=人的資本の所有者自分であることを、忘れがちになるだろうからです。
(略)
しかしそのような会社=雇い主は、従業員の労働力=人的資本そのものの内容までをも、実質的に支配しかねない存在でもあるのです。

(p229-230)

という問題がある。
ここでいう「会社」を「福祉の提供者(公共体)」、「従業員」を「福祉の受益側」と読み替えれば、老人ホームで「寝かせたきり」介護を受ける老人なんかを思い浮かべることはたやすいだろう。

■今日のまとめ

だから、やっぱりその地点(獲得した瞬間)に留まるべきなのか、という問いを立てずにはいられない。

「権利」・「福祉」の正当化はよいとして、世の中の風向きと「権利」・「福祉」に内在する課題を無視できないとしたら、やはり二番目の方向性である、手に入れた「権利」を利用して、それが無くなっても大丈夫なようになんらかの準備をしてゆくこと、を検討せずにはおけないのではないだろうか。

無論、具体的な名案があるわけではない。あくまで抽象的に、そう考えることの意味を見いだす、程度のものでしかないんだけど、もう少しこの論考を続けてみたい。

このエントリは連作となっております。
障害者自立支援法とその周辺 権利闘争「以後」についてのメモ(上)
障害者自立支援法とその周辺 権利闘争「以後」についてのメモ(下)
posted by 灰だらけ猫 at 02:39| Comment(0) | TrackBack(1) | 公共政策ねこ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Excerpt: 初心者です。
Weblog: Takami
Tracked: 2005-11-06 02:52
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