2005年11月04日

障害者自立支援法とその周辺
権利闘争「以後」についてのメモ(上)

ziritsuhouan.jpg

さる10月31日「障害者自立支援法」が衆議院で可決、成立しました。施行は来年4月からだそうです。

コチラによると、その目的は
1.複雑な福祉制度を一本化すること
2.障害者に公正な利用料負担を求めることによる、障害者の消費者としての意識向上
3.それによる障害者の自立促進

なんてことが掲げられている。

一方で、これは財政負担軽減を目的とした障害者の負担増以外の何ものでもないっ!という意見もあって、郵政民営化や組閣の話に霞んじゃった感はあれ、滝川クリステル嬢も心配なさっておいでです。(当エントリは決して上の写真を載せたくて書かれたモノではございません)

ただ、それらの一連の批判的反応をつらつら眺めていて思ったのは、「公共体が元締めの社会福祉」そのものが孕む危うさとか脆さへの認識が、みんなあんまりないんじゃないかなってことだ。
■前書き

もちろん、灰だらけ猫は福祉切り捨てマンセーと言いたいわけじゃない。初発の関心はあくまで、どういう利害関係者がどういう利害目的に基づいて対抗状態にあるのか、ということだった。
そしてそこから鑑みるに、それら自立支援法案周辺の批判的コメントは、自らが勝ち取ってきた「権利」や「福祉」に対して、ひどく楽天的すぎるんじゃないかと。「権利」や「福祉」を獲得できたなら、そこからもう一歩踏み込むべき先があるんじゃないかって疑問に思い至り、以下でその理由を書き連ねてみる。

灰だらけ猫は社会福祉全般に明るくないので、法案の内実をどうこう論じてみようというわけではありません。
障害者自立支援法案から入って、ところどころソーシャルウェルフェア全般を十把一絡げに論じているもんだから事実誤認なんかもあると思います。その点は叱咤していただければありがたいです。今日はその前半。権利闘争の形式を元にして、現状認識とそこからの課題抽出。次回エントリが本論部分になりそふ。

■障害者自立支援法案というもの

今回の、特に法案にネガティブな評価をしている人達が取り上げているのが、福祉サービスの利用料の一部自己負担化というポイント。
それが家計的にカツカツの生活を強いられている障害者にとって、重すぎる負担であり、多くの障害者はこれまで通りの生活が送れなくなるという主張がなされてきた。たとえばコチラがまとまっている。
その点は最もだという印象をうけたし、詳細は分からないけれど、そのような実質的な援助削減策が果たして「自立」に繋がるのかどうか、灰だらけ猫も「?」だ。

ただ、そういった直接的な感想のレベルから、もう一歩引いて眺めてみる。
そうすると、この自立支援法案を巡る推進派と反対派のあり方というのは、極めて現代的な政治闘争だと理解できるんじゃないかと思うんですね。

■闘争の構図の変容

つまり、
公共機関 vs 市民
という図式で描かれるような、かつての(旧来型の)権利獲得闘争ではないくて、
多数派の市民 vs 特殊な事情を抱えた市民(マイノリティ)
による本質的に噛み合わない政治が、そこでは繰り広げられてるんじゃないかなあ、とそんな印象を受けたわけです。

現代的(=21世紀初頭の日本らしい)というのは、推進する政府側が財務省の意向を強く受けていることからもそう言えるんじゃないかな。そして、その財務省の姿勢そのものにも、おそらく少なくない数の、国民全般の要求がかぶって見えないだろうか。

■許諾型闘争(お上からぶんどる)から

ほったらかしにしてるこちらのエントリでも少し触れたように、拡大成長が見込まれる経済社会状況下において財政規律は相対的にゆるみがちになる。よく知られているように、各官庁による予算配分の相互承認によって、オイルショック以降も財政規模は拡大しつづけた。その背後にいて分配の恩恵を直接受ける有権者にとっても、分配を遮る理屈はなく、また、そうして政体もそれに倣うことになった。

そして当時、マイノリティや弱者による権利獲得闘争があったとすると、そこでの第一の目的は「権利・福祉の獲得」である。そして相対する側にとっては、それを「容認」するか否かが焦点となる。要は、予算を引き出せるか、引き出させないかの対立軸であり、利用可能な予算そのものの存在は自明であった。

■対決型闘争(他の国民を説得する)へ

で、現在。
まず、財政的制約がために、利用可能な政策オプションは減少する。
そして、より大多数が納得できる公共政策への国家予算の選択と集中メカニズムは、政治体制が民主的であれば民主的であるほど、促進されやすくなるんじゃないだろうか。(上記の逆)

財政状況の逼迫が進むと(そのようなアナウンスが国民全般に行き渡ると)、各方面からの予算削減圧力が高まることは必至だ。それゆえに、権利闘争の相手は「政府・公共体」から、当事者以外の「その他すべての国民」へと移る。

そこで見受けられるのは、この法案を例にとれば、権利闘争として取り組む障害者とその関係者(反対派)に対して、「無い袖はふれん」とばかりに、法案に沈黙の賛成、もしくは中立的立場をとる大多数の国民の姿ではないだろうか。
言い直すと、相対峙する双方が「権利欲求」と「支出削減」という全く別々の「闘争」目的を掲げることになり、そこでは大方、力の強い多数派が勝ることになる。
かくして、「権利」を掲げる側にとって、それが人口比においてマイノリティであればマイノリティであるほど、目的達成は難しくなる。

■で、再び福祉に論点を戻してみる

もちろん、社会福祉関連のトピックは、今現在健常者である人達にも、将来的に関わってくる可能性がある。その点で、必ずしも国民・市民間での闘争目的の乖離が極端なものになるとは考えにくい。公務員給与や特殊法人問題ほどには、あからさまに予算削減効果を論じる人達がいないことからもそれは言えると思う。

しかし、ここでもう一度、視点を「権利」「福祉」獲得闘争へと戻してみる。
先にも指摘したように、結局のところ、旧来型の権利闘争というのは「拡大拡張する経済」という状況に、極めて楽観的にアダプトした形で進められたのではなかっただろうか?

かつて、各種のマイノリティや、何らかの課題を背負わざるをえなかった人びとは、幾多の艱難辛苦を越えて、待ちわびた果実を獲ることができるようになった。
でも、その果実の生る園を取り巻く環境変化に対して、彼ら彼女らの注意はどれほどだったろうか?果実を手に入れたことに安心して、その状態がいつまでも続くもの、後戻りすることなどない歴史必然的発展段階(唯物史観?!)との見通しがあったのではないだろうか?

今後とも障害者を含むマイノリティへの分配が縮小するようなことがあるとしたら、それは、つまり、権利闘争を通じて政治的に獲得したモノゴトが、同じプロセスによって剥奪されてゆくことだと解釈できる。

■今日のまとめ

繰り返しになりますが、権利闘争がだめだとか、無駄だと言っているのではありませぬ。

ただ、権利「獲得」のみに満ち足りてしまったゆえに、その地点に留まってしまったがゆえに、今、こうして権利剥奪の危機に曝されているのではないかと、灰だらけ猫は考えてしまうのです。

無論、その責任を当事者の努力不足だとか怠慢だというふうに考えるのは酷だ。
なぜなら、おそらく19世紀以降世界各国で繰り広げられたあらゆる権利獲得闘争は、その地点をゴール考えていたふしがあるから。
障害者やその他のマイノリティだけじゃない。労働各権のような、対象人口の膨大な政策においても、権利の獲得と維持以上の議論がなされたことを、灰だらけ猫は寡聞にして知らない。

だから、もっと考えなくちゃならないのは、権利闘争「以後」なんじゃないかってのが灰だらけ猫の論点です。
後編では、そこんところをもう少し詳しく論じてみまする。

続きはこちら。
障害者自立支援法とその周辺 権利闘争「以後」についてのメモ(中)
障害者自立支援法とその周辺 権利闘争「以後」についてのメモ(下)

追記
2005/12/21。同類記事へのリンクを作成
posted by 灰だらけ猫 at 22:23| Comment(0) | TrackBack(1) | 時事ねこ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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